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物忘れが激しく物覚えが悪い、三十路の備忘録

映画 の記事一覧

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『ドラゴンボールZ 復活のF』

2015.05.04 (Mon)
面白かったとも、つまらなかったとも言えない、なんとなくモヤモヤとした感覚だけが残った映画だったなあ。

僕はどっぷりとドラゴンボールにハマった世代だ。
今でも年甲斐もなく原作漫画を読み返すし、『神と神』も観た。
正直今回の『復活のF』は映画館でなど観るつもりはなかったのだが、ひょんなことから人に誘われて観た。

公開前からほとんどネタバレされていただけに、期待感のようなものはなかった。
それでも観てみようかと思えてしまうのは、ドラゴンボールだから、という以外に理由はない。

ドラゴンボールは頭空っぽにして夢詰め込むものだから、あまり小理屈を考えてはいけない。
とはいえ、とはいえですよ、どうにも消化できないもどかしさはあったなあ。

そもそもサイヤ人編以降のドラゴンボールが持つ殺伐とした空気と緊迫感は、鳥山明の本性であるペンギン村的なのどかさとはかけ離れている。というか対極にある。
ドラゴンボールが爆発的な人気を獲得したのは、サイヤ人編以降の、次に何が起こるかわからない中で果てしなくエスカレートしてく物語の演出と勢いによるところが大きい。

今回の映画は特に僕らに絶望を感じさせたフリーザを復活させ、宣伝でもやたら恐怖感を煽っていた。
ところが蓋を開けてみれば、緊迫感とのどかさの、どちらも中途半端なところに着地してしまっている。

『神と神』で鳥山明が原案をてがけたところから、ドラゴンボールはのほほんとした世界へと舵を切った。
破壊神ビルスのおちゃめな佇まいはその象徴だろう。
めちゃくちゃな力を持つけど怠け者でおいしいものが大好きな猫顔の神、などという存在は、はっきり言ってペンギン村にやってきてアラレちゃんと遊んでいても違和感がない。
だから、行き着くところまで行ってしまったドラゴンボールの世界に、鳥山明らしい感性で物語を継ぎ足していくと、どうしたってギクシャクしてしまう。
殺伐としていた頃の象徴であるフリーザは、もっとも足を踏み入れてはいけない存在だったといっても過言ではない。

事実、どれほどフリーザが強かろうと、もっと強いビルスやウィスがパフェを頬張っている限り絶望感など皆無である。
いくらピッコロあたりが、やばいやばいと焦ったところで、ハラハラもドキドキもしない。
まあ、これは僕が大人になったからであって、小さな子どもたちは純粋にドキドキしていたのかもしれないけども。

この映画を観てあらためて思ったのは、今のドラゴンボールは、今の鳥山明が描く新しい物語だということ。
今の子どもたちが楽しめるならそれでいいんだ。
僕も悟空が喋って動いて戦っているだけで楽しめる部分はある。

かつて僕らをエキサイトさせてくれたドラゴンボールは、胸にしまっておこう。
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ありふれた人生を全肯定する名作『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』

2014.08.07 (Thu)
懐かしさに人は弱い。少なくとも僕は弱い。
そこを端的に突いてきたのが映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』だ。
初めて観たのは大学生の頃だったが、泣いてしまいました。完全に。
父親ひろしの回想シーンがとにかく有名だけれども、あれはずるい。僕は自分を重ねるというより、
自分の両親のことを重ねてしまい、平凡なサラリーマンだけど僕ら家族のために頑張ってきたんだ
と思うともうダメだった。

オトナ帝国は懐かしい世界へ大人たちを巧妙に誘い込む。
観賞している大人たちも、懐かしい、懐かしいと、楽しかったあの頃に思いをはせる。
そしていつの間にか、オトナは過去から逃れることができなくなり、子どもたちはおいてけぼりを食らう。

すっかり幼児退行してしまう野原ひろし。
強烈なノスタルジアの魅力から彼を解放したのは、
つまらなかったかもしれない
つらかったかもしれない
平凡だったかもしれない
だけれども家族に支えられ、家族をつくり、新しい幸せをかみしめてきた今までの道程だ。

目を覚ましたひろしは、俺の人生はつまらなくなんかない、幸せを分けてやりたいくらいだと叫ぶ。

シンプルかつ至極まっとうなメッセージを、正面切って描いてみせる。
おそらく、全国のサラリーマンたちは大いに勇気づけられ、そうだそうだ!と喝采を送ったに違いない。
だから僕は、両親のことを思い出し、なぜか涙してしまうのである。

子どものころは良かったな。大人になんてなりたくないな。
俺の人生ってフツーだな。他人の人生は楽しそうだな。
そんなことを考えたことがある大人は少なくないはずだ。
人の不幸は蜜の味、などというのは、自分の幸せに自信がなく、もっと不幸な人がいることで
安心している心理でしかない。大概の人はそうなのだ。
僕の両親も、きっとそうだ。

だけどそんな人々の普通さを、この映画は全肯定する。
前にさえ進んでいれば人生は上々なのである。
だから懐かしさを振り切って前に進もうよ。そんなメッセージを象徴するように
しんちゃんは東京タワー(?)を全力で、転げまわりながらも駆け昇っていく。

そしてラスト、懐かしさを抱えたまま身を投げて事を終わりにしようとする敵役に
しんちゃんは「ずるいぞ!」と叫ぶのである。
大人になろうとしないまま、子ども達を幸せにしようとしないまま死んでいくのはわがままだ。

ひろしの回想に勇気をもらった親父たちは、ここに至って我が子に向き合い、
また頑張ろうとそっと背中を押される。

エンディングを飾る小林幸子女史の主題歌がとどめ。
おとうさん、おかあさん、今までありがとう、遠く離れても元気でいてね。
うわーん!

真面目な邦画では安っぽくなってしまいそうなテーマを素直に受け入れられるのは、
ユーモラスなアニメ映画クレヨンしんちゃんだからだろう。
観賞のハードルが高くないからこそ、斜に構えずに観られる。

おそらく未鑑賞であろう両親に、ぜひとも僕のいないところでこっそりと観てほしいと思う。



ちなみに、ほぼ同じコンセプトを感じたのが映画『三丁目の夕日』の第3作である。
2作目までは、とにかく懐かしさを売りにした古き良き時代の感動人情映画だった。
しかし3作目は少し毛色が違って、戦後復興を果たし急速に前進を始める日本を背景に、
登場人物の成長や旅立ちが描かれている。
さんざんノスタルジーに浸らせておきながら、それだけじゃダメなんだと告げるラストは
オトナ帝国と同様だ。

どちらも笑えて泣けて前向きになれる、わかりやすくていい映画だと思うなあ。

これは映画館で観ないと損!『GODZILLA』は正しく怪獣映画

2014.07.27 (Sun)
さっそく観ました。GODZILLA。
僕が初めてゴジラ映画を観たのは、今から25年ほど前のことです。

『ゴジラvsビオランテ』から『ゴジラvsデストロイア』まで、いわゆる平成vsシリーズは映画館で観てました。
当時は全席指定の映画館など地元にはなかったもんですから、朝も早くから前売り券を握りしめ、
ゲームボーイをお供に並んだもんです。
そして実に久しぶりに劇場で観賞したゴジラ映画、結論から言うと、非常に面白かったです。

正しく怪獣映画でした。

この映画、しばらくゴジラの姿は出てきません。未知なる巨大生物として、その恐怖だけが少しずつ描写されます。
我々は最初からそれがゴジラだとわかりきっているわけですが、じらされるほど期待感は高まるばかり。
いよいよホノルルに上陸したゴジラの全貌が大画面に映し出され、咆哮した瞬間! 出たー!
たまらない興奮! もう超エキサイト。はっきり言って、これだけでも劇場で観たかいあり。
肝心のゴジラのフォルムは、いい具合にマッシブで、顔もコワい。
ファンには賛否両論あるかもしれませんが、個人的には着ぐるみっぽさと最新CGをうまくミックスした
かっくいいデザインだと思います。
なによりその巨大感が半端じゃない。設定上は日本のゴジラと変わらない大きさなのですが、ずっしりとした
体型のせいか、迫力が圧倒的です。

本作にはゴジラと、ムートーという怪獣が登場します。
彼らの存在はまるっきり災害です。人間の都合などまったく眼中になく、ただ発生し、そこにあります。
結果として瞬く間に壊滅する都市。
もう本当になすすべく逃げ惑うしかないんですね。ハリウッド映画の米軍といえど、反撃するシーンは皆無。
終盤はお約束通りゴジラとムートーによる怪獣プロレスが繰り広げられるわけですが、
めちゃくちゃに大暴れして決着をつけて、最後に残るのは瓦礫の山と静かな海。
一応ゴジラはムートーを撃破するという目的を持って行動するんですけど、徹頭徹尾、人類は蚊帳の外です。
人間とゴジラの間には怒りや憎しみといった感情が入り込む余地はありません。かろうじて描かれるのは、
畏怖、あるいは祈りのみです。
ちなみに、この映画ではゴジラによって人が殺される場面はまったくありません。
日本の初代ゴジラは、水爆によって生み出された、人間のエゴに対する憎悪と反省の象徴でした。
しかし本作のゴジラはむしろ、原子力などをきっかけに乱された地球上のバランスを、再び正す存在として
取り扱われています。このあたりに、日本のゴジラをオマージュしながらもアメリカ人的に再解釈した
監督のメッセージがあるのかもしれません。

とまあ、細かいことを言い出せばいろいろと深読みできるのでしょうが、
怪獣映画として楽しむならそんな細けえことはどうでもいいんだよ、というのが本音です。
若干ストーリーが雑に感じるところもあります。微妙に家族愛などをうたっていたりします。
だけどどれもこれも些末な問題です。


吠えるゴジラ、怪獣同士のバトル、必殺の放射熱線!
王道の怪獣映画としてのツボはことごとく押さえてくれています。それだけで十分です。
映画館で観ないのは間違いなく損。テレビでは味わえない高揚感が絶対にあります。
観ようかどうか迷っているなら、今すぐGOだ!

『華麗なるギャツビー』でディカプリオを楽しむ

2013.06.25 (Tue)
原作者であるフィッツジェラルドが「ジャズエイジ」と名付けた1920年代のアメリカは、享楽にまみれた狂想の時代。だそうな。
豪奢な城で毎夜ド派手なパーティを催す成金ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)は、いったい何者なのか。

ギャツビーが開催する、酒飲みまくり、踊りまくり、泳ぎまくりのパーティは「ジャズエイジ」の象徴だ。
虚構と狂乱。まさに金持ちどもの理由なき乱痴気騒ぎ。
そこに潜り込んでいくニック(トビー・マグワイア)は、真夏の夜の夢のような空間にどこか馴染めず、僕らの分身となって物語を進めていく。

映画の序盤はけたたましいクラブミュージック(2013年はジャズエイジじゃないんだね)とキラキラした喧噪のシーンにやや辟易したなあ。ただ、もったいつけて登場するディカプリオは非常にはったりが利いていて、ミステリアスなキャラクターにとってもマッチしていた。うーん、いかにも妖しげ。

ギャツビーの素性がどんどん明らかになっていく中盤以降は、ニックと同じように、僕も、虚構の裏に隠されたギャツビーの純粋さ、素朴さに引き込まれていった。

そして想い人デイジーとの再会を経て、舞い上がり、やがて消え行く花火のように終息していくギャツビーの夢物語。
序盤と終盤の対比がなんとも虚しく、デイジーとの恋だけが人生のすべてだったギャツビーさんの姿が哀れでたまらなかった。


あまりにも有名なストーリーだけど、僕は原作も過去の映画も未見なので、本作が初体験。それでも物語自体には新鮮さはなかったかなあ。狂想から恐慌へと落ち込んでいく20年代アメリカの「祭りのあと」敵な虚しさは感じたけれども。金持ち社交界の馬鹿らしさに呆れるニックの気持ちがよくわかる。


そんなことよりこの映画は、ひたすらディカプリオを楽しんだほうがいい!
なんだろうね、あのウソっぽいふてぶてしさと、実は純朴な「ぼく」だったというキャラクターが、すごくハマっているんだよなあ。

「妖しい人だ…」「実はいいやつかも?」「なんて哀れな!」
ニックと一緒に、ギャツビー=ディカプリオの人間像を堪能しよう。

くたびれた大森南朋 『さよなら渓谷』

2013.06.14 (Fri)
先日『さよなら渓谷』の試写会へ行って来たのでメモ。
タダで映画が観られるなんてありがたや。

なかなかヘビーな映画だったなあ。
15年前に起きた犯罪の被害者と加害者が、なぜ共に暮らすようになったのか。
主人公夫婦の隣家で起きた幼児殺しがきっかけとなって、15年前から現在に至るまでの真相が明かされていく。
ってのが筋立て。

序盤はミステリー仕立てで、話が進むにつれて被害者と加害者の心情にフォーカスしたドキュメントタッチになっていきます。
一生モノの傷を負わされた人と負わせた人が一緒に暮らすなんてのは、ほとんどファンタジーなんだけど、もしかしたら人の情愛にはこんな形もあるのかなあと思わせるだけの、もっともらしさはある。
この投げ掛けが本作の主題であろう。二人の関係を「歪んでいる」と捉えるか「意外と真実」と捉えるかは、人によって様々。話の核となる仕掛けはポスターで堂々と暴露されているが、主題について考えるには映画の後半を観る以外にない。

個人的には二人の関係とかよりも、くたびれた大森南朋と主役の男性に目がいってしまった。
この男二人には、輝かしい過去としようもない現在という共通点がある。特に中年丸出しの裸体を晒した大森南朋には「今のオレ情けねー」感が滲み出ていてたまらん。

彼らを見ていて思うのは、犯罪にしろ就職の失敗にしろ結婚の失敗にしろ失恋にしろ、誰にだって大なり小なり逃れ難い過去はあるよなあ、ということ。ほんの些細な事だって、自分にとっては墓場まで持っていくくらいの後悔だったりする。少なくとも僕には思い当たることがある。
そういうものと相対して生きていく辛さとか情けなさを感じるなあ。

僕は犯罪者ではないので、大森南朋の妙にリアルな中年裸体に感じ入った次第。
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